第一章 あこがれから出会いへ
しかし、当時、その存在は、はるかかなたの遠い世界のものだった。チャンスはそれから数年後、1989年にやってきた。名古屋で行われるCMAS(潜水指導団体のひとつ)の世界総会にジャック・マイヨールがゲストとして招かれていることを知った恵さんは、一も二もなく名古屋へ向かった。ジャック・マイヨールを一目見たい、チャンスがあれば話を聞きたい、その思いだけが彼女を動かした。
到着したその日は会えなかったんだけど、次の日の朝、ラウンジでお茶を飲んでいるジャックをみつけて、すごくドキドキしながら近づいていってカタコトの英語で「座っていいですか?」と話かけたのが最初です。
話した内容は、自分がその当時、水中バレエをやってること(*1)、スクーバのインストラクターもやっていること、スキンダイビングが大好きなことなど。そして「ファンなんです」と言ったら、とても喜んでくれました。当時、日本では彼はそんなに有名人ではなかったし、最初の映画「ビッグ・ブルー」(*2)も大ヒットというほどではなかったからそんなことを言う人もあまりいなかったのでしょう。そして「これから、ボクの部屋で仲間と話しをするから、キミもぜひ来なさい」って誘ってくれました。
部屋に行くと、成田さん(=成田均さん ダイビングショップ《シークロップ》主宰)をはじめとするジャックの日本のお仲間に紹介されました。それから大会の期間中、行動をともにするようになって、ジャックの当時の夢、例えば「こんな映画を作りたい」とか、「こんなことをしたい」という話を聞いたり、一緒にごはんを食べたり、夜はジャックがみんなの前でピアノを弾くのを一緒に聴いたりしました。
*1 水中バレエ-遊園地の《読売ランド》の中にあった、水中バレエ劇場で、松元さんは、水中サポートスタッフのチーフを務めていた。
*2 映画「ビッグ・ブルー」-1988年公開。日本でも公開されたが、大ヒットというほどでもなく、一部のダイビングファンの間で話題になった程度であった。
水着一枚で海に入るその後、恵さんはジャックさんの友人の1人である関邦博さん(医学博士。ジャック・マイヨール著「イルカと、海へ還る日」1993年講談社刊の訳者でもある)を通して、「ジャックがまた会いたがっている」という誘いを受ける。それ以来、ジャックさんの旧知の日本の友人の輪に迎えられ、親交が本格的に深まっていった。
具体的には、彼が日本に来るときに空港に迎えに行ったり、送ったり......。来日中は、彼が禅の修行のために通っていた八幡野のお寺に一緒に行ったり、中野の《TAC》というダイビングプールのあるスポーツクラブに練習に行くのにつきあったり、真鶴や館山の海で泳いだりしていた。
ジャックは、どこに行っても、海があれば入りました。とくに館山の成田さんのお宅に泊めてもらっていた間は、11月下旬なのに、毎日、水着一枚で海に入るのにつきあわされた。1日目は成田さんも含めて3人で海に入るのですが、次の日からは成田さんが、「メグちゃん、一緒に行ってやってよ」と私にふる。それで、私は毎日一緒に海に入っていました。
当時は、しょっちゅうジャックと海に入っていたけれど、でも、フリーダイビングを彼から習おうなんてことは考えていませんでした。まだまだ、フリーダイビングやその競技会というものは遠い世界のできごとでしたし。とにかく、「深く長く潜れるジャックはすごいな~」と、あこがれの人のそばにいられるということだけでドキドキしていた。会えるたびにうれしくて、楽しくて。今思うと、あの気持ちはたぶん、恋と言ってもいいと思います。私は、一目会ったときから、ジャックに恋していたんだと思います。